こんにちは。
今日は気持ちの良い天気の日でしたね。
ちょっと日当たりのいいところは暑いくらいでした。
みなさんの生活の中で「ことば」はありませんか?
常識・当たり前・普通・いいもの(こと)/わるいもの(こと)…
これらがあるから社会が円滑に回っているのは体感的にわかっていますが、
別の側面ではその言葉の力で摩擦が起き、人間関係がうまくいかないことがありませんか?
先に書いたように常識や「いいもの」とされるものは、そのことばが示すある種の規定があるから個性の違う人々が一緒の方向をみて社会活動ができているようになるメリットがあります。
しかし、法律などと違って時代や年齢、生活環境によってこの規定は定まっていないのでわかりにくさがあります。
一昔前にKY(空気読めない)なんて「ことば」も流行っていましたね。
「常識やいいもの」といったものには、一部のコミュニティのみで通用するものから、地域単位、国単位と様々にあることや、それは変化するものだということも意識して使えるといいなぁと思います。
ことばや考えに囚われないようにしたい気持ちは昔からあるようで、書物や過去の偉人たちの功績をみてもうかがえます。
もし、みなさんの周りで
「あれ、ちょっと常識的じゃないな」
「これはいいものだよ!」
と耳したり自分の気持ちが沸いてきたら、
そう思うことが目の前で起きている。
そして、それは命に関わる危険なのか、なぜそう思ったのか…
とその時でなくてもよいので一度考えられるといいですね。
私も考えの合う人と「普通はこうだよねぇ~」と話すことがあります。
つまり、自分の規定に入ったかどうかで判断をして物事を話すことがあります。
自分の規定はあるべきと思いますが、世の中のすべての人間が同じ規定を持つことはないということを私は意識しています。
みんな同じである方がストレスが少なく済みます。
でも、それではつまらないと感じます。
以前ストレスのすべてが悪くないと書いたことがあります。
違った意見や考えはお互いを成長させ、強いては社会を発展させます。
もちろん、過度のストレスはよくないのでその「常識・いいもの」の規定が違うと思うのであれば、離れるのが一番です。
相手を変えるのはなかなかハードです。
なぜなら、その相手の周囲にはその考えを持ったコミュニティが存在するからです。
長くなりましたが、
「常識・いいもの」は必要なものだけど、それは理由や背景があってこそ成り立つもので、
違うと思ったら自分に合った「常識・いいもの」のコミュニティに行くのも大切なことだと思います。
そして、違っていてもお互いを認めていく社会になるといいですね。
※命の危険に繋がるものは認められないです。